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研究材料として扱われる人間の生命
人体や生命、病気をどのように取り扱うか、どのように考えればいいのか。生命倫理は、その文化や宗教、年齢、ジェンダーなどによって異なります。たとえば中絶。女性の中絶を絶対に許さない主張をしているアメリカの一部のグループは、中絶を手助けする医師を「殺人者」といって激しく批判しています。日本は先進国の中で中絶件数がかなり多い国にもかかわず、中絶をすることへのタブー意識が比較的薄い社会といえるかもしれません。日本から見ればアメリカの中絶批判は過激です。しかし、キリスト教文化では中絶は罪深いことなのです。とはいえここまで知ったかぎりでは、それぞれの文化によって価値観が違うから、と済ますこともできるでしょう。
しかし、現実の医療現場では即断即決が求められることばかりです。理想をいえば、ひとりひとりの患者の声に耳を傾けて、その「生命倫理観」に従って医療を施すのが最善ですが、そういうわけにはいかないのが現実でしょう。そもそも、日頃から生命倫理を考えている患者がどれだけいるでしょうか。ほとんどの人は、平凡な日常を暮らしている普通の人たちです。
若い女性が初めて妊娠したとき、受精卵診断について私はこう考える、という意見をもっていることは一般的に考えにくいのではないでしょうか。妊娠を喜び、胎児が健康に生まれるように願うのが普通のありようでしょう。
それでも、ある医療行為をすべきかどうか、という決断を迫られる事態はあります。
あなたという地球上にただ1人しかいない生命に対して医師は、許可されたことしかできないし、許可されざることはできないのです。それが生命倫理です。
生命倫理は「バイオエシックス」の訳語です。バイオエシックスは1960年代のアメリカで誕生した言葉で、バイオ(生物)とエシック(倫理)をくっつけた造語です。
あるジャーナリストは「バイオエシックスは人権を守りながら生物学的な最新技術を使う道筋を探る学問だ」と言い「それが果たして可能なのだろうか」と疑問を呈しています。なぜならば、ある種の最先端医療は「病気を治すか、人権を選ぶか」という究極の二者択一を迫るからです。たとえば不妊治療で、複数の受精卵の中から、最良の受精卵を選び取って妊娠、出産を迎えるとします。残った不要な受精卵は、研究材料となります。この受精卵は人間の生命なのですが、研究材料として扱われるのです。これは倫理問題であり、人権問題でもあります。もし、「最良の受精卵」から先天異常の子どもが産まれたとしたら、その親は医師を訴えるかもしれません。しかし、本来なら「神のみぞ知る」領域に医師も患者も踏み込んでいるのです。このような混乱を避けるためにバイオエシックスは役立ちます。「このガイドラインによれば、受精卵の研究利用は許される」などの基準が得られるからです。こうして生命は産まれ、研究材料も手に入ります。しかし、何かしゃくぜんとしません。そうです、胎児の運命を私たちが握っているからです。この違和感を忘れないことが生命倫理を考えることにつながるのではないでしょうか。
2001年12月10日
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