|
情景を楽しみながらふらりと歩く
さあ、皆様もっと歩きましょう! と云うお話の続きである。
稀代の噺家・古今亭志ん生の十八番(おはこ)『黄金餅』の一節に、隣人のなきがらを下谷の山崎町から麻布絶口まで、長屋の連中が歩いて運ぶくだりがある。
噺の筋にさして影響の無い、云わば“つなぎ”であるにも関わらず、志ん生はこれをどこそこを通ったうんぬんを事細かく描写し、名調子に仕上げた。批評家連は、こぞって彼の類稀な観察力と噺に昇華させたセンスを褒め称えたが、一方貧乏で電車賃の無い志ん生は、どこへ行くにも歩いていたことから、偶然生まれたものと分析する向きもあった。
私としては、後者がもっともだと思うが、その上で前者が働いたと推察している。要は、志ん生もただただ無心に歩いていた訳でなく、志ん生と云う噺家の性が、道すがら目にする様々の情景を"楽しんで"いたのだと思いたい。
ここまで云えば、もう他に云うことはないが、要するに楽しく歩くとは、歩きながら“何”をするか、と云うことである。つまり歩くことに執着せず、飽くまでも歩くのは“当たり前”と心得、周りの風景や音や匂いをたしなむ、あるいは様々な考えを巡らせるのにも絶好のシチュエーション足りえると思う。前回書いた様に、人間はおろかな生き物なのだから、しょせん思惑通りに行かなくて当然と知り、歩く=健康などと云うガッチガチの執着は捨て、いつ何時でも、暇が出来ればフラリと街を闊歩する。また、おろかな私としては志ん生の落語集を片手に、下谷から麻布まで歩いてみるのも大変結構なご趣向と思う。
暑さ寒さも彼岸まで。近頃は季節も良い塩梅になってきた。ポカポカ陽気のもと、「一駅、イヤ、二駅手前で電車を下りて家まで歩いてみるか」なんて、いかがなものだろう。歩いて歩いてくたびれて、気が付けば良い具合に腹もへる。それが自然。いわんや健康のあかし。ホラホラ、気張らなくても健康になっちゃう。
(つづく)
2001年4月16日
|