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楽しんで歩かなきゃ意味がない
時代錯誤も甚だしいが、明治以前の交通手段は“足”だった。東海道五十三次、日本橋を出立し、上方までみんな歩いた。それから一体何が変わっちまったのか。人生五十年と云われた彼の時代から比ぶれば、確かに寿命は倍近くになっている。が、それが健康あるいは幸福の証だとは到底思えない。五十三次をたった三時間で駆け抜ける交通をはじめ、環境は変化に富んではいるが、実は人間そのものが大して変わってないのではなかろうか。
私は、高々100年そこそこでカラクリ芝居のごとくパッパ変わる環境に順応できる程、人間は便利ではないと思う。体型が欧米並になってきたとて、問題は中身。我等が肉体のDNAには、前述した古来の生活風習が、色あせることなく今もって受け継がれている。
そして、そのDNAがヘソを曲げた時、やってくるのが生活習慣病とか云う厄介な“虫”である。コイツはよっぽど今の世情が気に食わぬ様子だが、さりとて豊かな生活レベルを下げるのも酷な話。ではどうするか? これはもう虫が癇癪を起こさぬ様、ご機嫌うかがいをたてるより他無い。早い話、彼の時代に思いをはせ、暮らしぶりを虫に思い出させてやれば良い。何も歩いて峠越えせい、とか云う話ではない。普通の気分で歩けば良いのだ。
例えば、病気の予防だとかダイエットのためとかの“意味”があるから歩くとする。一生懸命続けて、ある日体重計に乗っかって、もしも思惑通りいかなかったとしたら…、大抵の人が歩くの止めてしまうだろう。これは、はなから『損得』の計りで何事も判断する人間(現代人と云っても過言ではない)のおろかな一面である。
人間は、誰しもおろかな生き物である。それを理解した上で、妙な皮算用はせず、普通に歩き、知らぬ間に健康になっちゃった、という塩梅が一番おだやかで結構なこと。では普通に歩くにはどうしたものか。手っ取り早く云えば、歩くことが楽しければ、すべからく継続出来るもの。歩くのをどう楽しむかについては、次号に譲ることにする。
(つづく)
2001年4月2日
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